苦労というもの

 人はたいがい、自分は苦労なしに生きてきたとは思っていない。おおむねが「苦労に克って来た」と思っている。或いは「自分ほど苦労してきたものはない」と考えている。後者の考えは、特に、女性に多い。
 見るからに、憂暗な、苦労やつれの影をもって、作家の応接間でそう訴える人を、われわれ作家はよく客として見るのである。そして「わたくしの半生は小説以上ですの」と語りたげに、手紙にも訴えてくる。
 しかし、およそ「自分ほど苦労した者はありません」などと自ら云える人の苦労と称するものなどは、十中の十までが、ほんとの苦労であったためしはない。とるに足らない人生途上の何かに過ぎないのである。ほんとに人生の苦労らしい苦労をなめたに違いない人間は、そんな惨苦と闘ってきたように見えないほど、明るくて、温和に、そしてどこかに風雨に洗われた花の淡々たる姿のように、さりげない人柄をもつに至るものである。
なぜならば、正しく苦労を受け取って、正しく克って来た生命には、当然そういうゆかしい底光と香いが、その人に身についているはずのものだから。
 それと反対に、めそめそと、人にも見せ、自ら、自分ほど悲運な人間はないなどと語れるうちは、まだその人は社会そのものも苦労の実相も、何も知っていない証拠である。ひとりで、観念の苦労を悪夢しているようなものだ。もっと、無慈悲な言葉で言い放すならば、苦労を遊戯している者に過ぎない。(吉川英治1892-1962)


なんだってさ。
いささか、悲劇ヅラしたヒロインに対して敵意むき出し間はあるものの、『言いえて妙だよマルオ』という感じ。笑
私も自分を顧みなくてはならなきゃいけんとこがいっぱいあるなぁって思うし、たぶん、そのほかにもこういった勘違いをなさっていらっしゃる人はいっぱい存在していると思う。
むしろ現代の社会では、それが切なくて格好良いもの化しているきらいがあると思うのだ。「ねぇナナ現象」とでも言えばいいのかな。

今日、お手紙を書こうと思って、歳時記を読んでいたら、ひとことコラムページに吉川英治宮本武蔵太閤記を書いた歴史作家。ちなみに作品は読んだことはない。この人の記念館には行った事があるけれど。)のお言葉があったから、なんとなく色々思ってみたのさ。

ってか、歳時記って面白いのね。
時候の言葉とか調べようかと思っただけなのに、バスタオルの選び方から、エスペラント後創設の背景まで書いてあったり、超面白い。はまりそう。